昭和55年9月21日  朝の御理解

御理解 88 節
「昔から親が鏡を持たして嫁入りさせるのは顔を綺麗にするばかりではない、心に辛い、悲しいと思う時、鏡を立てて悪い顔を人に見せぬ様にして家を治めよと言うことである。」



神様にお願いをしておかげ を頂くと神様の御心を解り、教えを頂き、自分の心の中を改め、解る処を解らしてもろうて、受けものを作らしてもらっておかげ を頂くと金光教の信心はその後者の方を取り上げたと、こう思うんですネ、いわゆる、話を聞いて助かると言う訳ですから、話を聞いて自分の改まる処を解らしてもろうて、そして、受けものを、おかげの受けものを作る事を教えてもらう。そこにおかげが頂けるかと言うと、又、反対にそれとお願いをしておかげ を受ける。その両面があるんですけれども、私どもが真実助かると言う事は、やはり、受けものを作る事によっておかげ を受けると言う生き方じゃないと、自分の自分一家の助かりと言う事にならない。助かる、そこで手立てをここでは教えて頂く言うのが本当ですネ。鏡を立ててとこう言う事は例えば、そこに難儀な問題がある、困った苦しい問題がある、それはそのまま自分の心の姿だと言う風に頂かしてもらう事が一番本当なんです。もう、困った事ばっかしで、あれも、これも、ともう、初めて参って来た人達なんかはもう、頼んどかにゃ損するぞ、言って困った難儀な問題を一杯並べ立ててお願いをなさる方がありますネ、それはそんなに言うならば自分の心の中にそう言う難儀を感じなければならない元は貴方自身にあるのですヨ、と言うても中々解らない。先日も息子さんが結婚をする、ところが、その好きになった娘さんのお母さんと言うのが心がけが悪い。とにかく、まァ、非常識な事を言われると、言われる訳です。それでそんなら、まづ、その娘さんのお母さんの心の上に御繰り合わせを頂かなければなりませんと言うけれども、その嫁さんのそのお母さんの心の上に御繰り合わせを頂くと言う意味が判らないらしいですネ、私はここん処を何回も繰り返して申し上げたことでしたけれども、やっぱ金光教のまァ、用語と申しましょうかネ、「はい、お願いしときましょう」「はい、御繰り合わせをお願いしましょう」とまァ、私が申しますから、もう、当り前のように思うて使う言葉でも、初めての人にはそれが判らないネ。ただ、自分達の願い事を聞いて貰うだけ、言わば自分達が、自分こそが心の上に御繰り合わせを頂かんならんとか、改まらなきゃならんとかと言うような事は判らないネ、そう言う処から信心を頂いて行くのですから、なかなか、やっぱり難しい。昨夜菊栄会でしたから、もう、終わったら十二時過ぎとったでしょう、文男先生が足揉みを来てくれました。それでまァ、足を揉んでから色々話をさして頂いた、その頃から先生があるお得意さんが癌で難儀をしておられる、一日がもゥ手術だと言うので、その手術前にお願いにみえました。それで、お取り次をさせて頂いたんですけれども、先日から病院に行かれたところが、もう、癌の気もなかったと言うんです。だから、癌じゃなかったんじゃろうとまァ、皆さん思いなされるかも知れませんけれどもネ、この人の場合は前に何かの傷がある為にレントゲンに撮ってそこにはっきりその癌の写真が出ておる。それが無いもんですから、もゥお医者さんの方が慌てられたと言う話、こんな事があるだろうかと言うて、最近それが非常に合楽では多いですネ、この頃からも日田の御信者さんで子宮ガンでもゥ、入院すると言われて、入院する為に癌センターに行ったら二十日ばかり遅れて行った時にはそのもゥ、その癌が無くなっておったと言う様な例があります、幾らも有ります、ですからお願いに来て、いっぺんお願いに来てからそんなに、命に係わる様な病気があっと言う間に消えて無くなる様なおかげ、そう言うおかげとそこに難儀な問題があるなら、その難儀な問題は、まァ言うならば子供は親の鏡と言われる様にネ、難儀は貴方の心の鏡なのだ、特にに自分と言うものを、いよいよ、ギリギリ見極めて、いよいよおかげを頂いて行くと言うのが金光様の御信心ですネ、そこでネ、私どもがここで解らして頂かなければならない事は私どもが本気で神様のネ、ここを改めよ、ここを磨いて行けよと言う教えを頂いて、私どもが本気で改まり本気で改まったらネ、もう、それこそ、天と地がひっくり返る様な感じのネ、おかげにもなる。凄まじいおかげにもなって来るとネ。それを改まりもすっきりと、でけもせずに、ただ、お願いを、お願いと言うか、お参りをしておる、教えを頂いておると言うだけですから、おかげがそのすっきりした言うならばネ、凄まじいまでの、例えば、癌があっと言う間に消えて無くなる様な働きがネ、受けられるのです。信心が出来、受けものが出来て、そう言うおかげを頂いた時に私どもの助かりが有るのです。そう言う凄まじい働きと自分の心の中にも、今までどうにも、しようのなかった、それこそ、癌の様な心、改め様にも改めようの無かったような、その心の改まりをすっきり改まるから今、申します様にあっと言う間におかげを頂くと言う、そう言う働きがこう、相まっていかなければ、人間の助かりに、と言う事になって来ないし神様も喜んで下さる助かりと言う事にはならんのです。いっぺんお参りしてネ、昨日の文男さんのお話ではないですけれどもネ、確かに癌が、いわばレントゲンの上に現われておる、それは、前の何かの傷があってそこに癌のガシャットとレントゲンの上に写っておる。前、古いのがあったから、無かったじゃろうと言った様な事は言われん。ただ、不思議な事もあれば、あるもんだとお医者さんも思われるだけの事ネ、そう言うおかげだけがもし、私どもが本当におかげとしたら、これは私どもの幸せには一つも繋がらないのです。言うならば、神様も喜んで下さる私共も喜び合える言うならば本当の合楽世界には私共は何時まで立っても住めんのですネ、まァ、言うならば、神の権威に掛けても神の働きを見せて下さると言う場合があります。だから、なら、そう言うおかげを私共が信心によって頂いた時に始めてネ、それこそ、夢にも思わなかった様なおかげの世界が開けてくるのです。だから、まず、私共がいよいよ、本当の真実が解ると言う事はそこに感じる難儀、そこに痛い、痒いを感じる、それは言うならば貴方の言うならば、心の現われであるからネ、心一つで全てを作ると言われるのであるから、心を本気で見極めなさいョ、改めて行きなさいョ、磨きなさいョ、と言う事になるのですネ、まァ、色んな、それこそ、もう、昨日の御理解の中にありました様に御祈念する他にない、そう言う、もう、とにかく一心不乱に拝んで拝んで拝みぬいて、もう、お願いし、御すがりし抜いてそして頂くと言うおかげも在ります。昨日はある熱心にお参りをされます遠方の方から矢野先生宛てに電話が掛かって来た、と言うのは明日かあさって、自動車の車検替えになっておる、お金が十万円いる、お繰り合わせをお願いさせて頂いておりましたら、おかげを頂いて十万円の定価の単車を新しい物をもう、思いもかけない所から頂いたと言うのですネ、だから、その十万円の単車を売ってそれに当てたい、とこう言う訳、そこで、売りたいと思ってある人にお願いした所が、十万円のを五万円なら買うてもよか、とこう言われる、どんなもんでしょうか、これを売ってそして、あと五万円のお繰り合わせをお願いするネ、十万円の定価を十万円で売ればそのお金でそのまま、車検の方へ使うんだけれどもネ、その十万円の定価であるけれども、いよいよ売る時にはその半分の値の五万円しか売れないと言う訳で、それでお伺いをして来た訳なんです、そこで、矢野先生があのお取次ぎをさせてもらう、それは、○○さん、そん五万円と言われると、例えば、五千円でも一万円でも売り上げる事をお願いして、その売り上げた分だけをお供えになさったらどうでしょうか、とこう言う訳である。そんなに電話が掛かって来たら、そう言おうと思いますがと、言う事であった。皆さんどう思いますか、十万円の車検ネ、そこにお願いさせて頂いとったら本当に十万円の定価の単車を思いもかけない所から頂いた、それこそ、降って沸いた様な事である。おかげを頂いたそこでなら、十万円で売れれば問題は無いのですけれども半分の値の五万円しか出来なかった、だから、あと半分の五万円は又別に御繰り合わせを頂かなければならんのだけれども、どんなもんでしょうか、矢野先生がまあ、それを受けて思うた事はネ、やはり少しでも神様に喜んで頂くようなあり方にならなければ、あとの五万円の御繰り合わせは頂けないと感じたネ、そこでなら、向こうは五万円と言いよんなさるけれども、それを例えば少しでも売上げなさい、売上げる事をお願いなさい。そして、売上げた分だけは、お供えをさして頂くと言う事によって次のまあ、後の五万円の御繰り合わせを頂くと言うことにもなる。これは今日、いうならばネ、おかげの受け物が出来て、おかげを受ける、おかげの受け物がないけれども、それこそあっと言う間に癌の様な命に係わる様な病気がネ、なら、消えて無くなる様な働きが受けられるおかげもある、かと言うと、一つ信心のテクニックねェ、確かに神様はそう言う処にポット引っ掛って来なさる様な処の面もあるんですもんネ、私の母なんかは朝の一番ここ、ミグチと言いますネ、一番初めに売れたミグチのお金がその日の御初穂でした、だから酒と木炭としてましたから、一合の角口ちにみえますネ、湯飲みにみえますと、当時十銭でしたから、十銭を御神様専用の竹筒をここに掛けてあった。チャラン、チャラン、とこう入れる。ねェ一升売れると、まァ、八十銭とか、一円とかいう、そう言う時に母が言いよりました、あゝ今日はおかげ頂いたち言いよりました。そう言う処があるんですよネ、テクニックですョ、やはり改まると言う事でもなからなければ、まァ、荒唐無稽の様な感じで現れる処のおかげでは無い、それだけの言うならばテクニック、言うならまァ、神様に少しでも喜んで貰うと言う様な生き方をです、そう言う様な神ながらの生き方に求めると言う生き方もある。さっきの話し、とにかく、御祈念、御祈念、もう、御祈念する他にないと言う先生がある、また、御祈念力で助かっておる事実も又ある訳です、だからもう御祈念する他にないと言って一生懸命のお参り、又は一生懸命の御祈念によって、おかげを頂くと言う場合もある訳ですネ、それで私は、矢野先生に今申しましたネ、それは御信者さんがそう感づかれて、そうされる事であって取次ぎ者がそれを教える事ではないごたるネ、と言うてそう申しました事でしたネ、これは信者さんの方があと五万円をおかげ頂かんならん、それにはもう少し本とに神様に喜んで頂く事の為に五万円で買うと言いよんなさるけれども、六万円で買うて下さいとお願いをして一万円売上げて一万円をお供えにさして貰おうと腹を決める、これは取次ぎ者が言う事ではなくて、お願いをする者が腹を決める。まァ、言うならば信心のテクニックですから、これはめいめいが体験によって色々と覚えてゆく事なのです、そこで昨日私、研修の時にまァ、皆取次ぎ者の先生方ばかりネ、未来のどこどこの教会長になる人ばかりですから、あんた方だったらどう言う御取次ぎをさして頂くかと言うて質問をさして貰ったネ、そしたら、佐田先生がこう言う事を申しております。例えば十万円のお繰り合せをお願いしとったら、十万円の単車を頂いた、それが十万円が右から左に売れたと言うなら、それが本当におかげとして、そうしてもいいでしょうけれども、それが五万円にしか売れんと言うならば、それこそ思いも掛けない、夢にも思わなかって得た五万円ですからその五万円はそのまま私はお供え致しますとこう言う。そりゃあもう、一番良かばってん実際自分の場合だったらどげな風なとみんなが大笑いした事でございますけれども、もう、この生き方行くなら、あとの十万円は必ずお繰り合せを頂くでしょうネ、中々、しかし、その度胸が出けんです。そして私の過去の自分の信心をまァ、思い出させてもろうて聞いて貰った訳ですけれども、私の場合はそこ辺が佐田先生が言う様なもう、すっきりとしたものであったと言う事でございます。まだ引揚げて帰って来た当初、秋永先生の所に取り上げの加勢に行った。二、三日位おかげ頂いたでしょうか、そしたら、あちらのお婆ちゃんが私にお米を五升余りのを、あのう、お礼にと言うて下さった。私はその時分にまァ、そう言うものを自分が頂く等と夢にもと言うか、夢にも全然思うておりませんから、そのまま善道寺にお供えさして頂こうと思ってその五升を自転車の後ろにつけて、そして椛目である用件がありましたから、ちょっと下りて、したら母が自転車の後ろに着けとるのは何の、とこう言う、これはこげな風でお礼にと頂いたから今善道寺にお礼に持って行きよると申しましたら二、三日で良かけんそれを貸してくれんのと、母が言いましたと言う様に当時の私の方は逼迫して居りました。もう、何時、今日頂いてしもうたら、明日食べるのがないと言った様な事はもう、本とに何時もでした。只、そんならこれをば、使うとかんのは申しません。イヤ、これは出けんばの、と言ってもう、それこそ、ほんなら五升頂いたけんて四升うちに貰うて一升だけお供えすると言った様なもんじゃなくてもう、そのままがお供えでした。これはもう、一辺二辺の事じゃありません。色んな意味でそうでした。いわゆる佐田先生が言う、思いも掛けない十万円の単車を貰うた、所が、実際売るになったら、半分にしか売れなかった、そこで、ふと気がついて、これは私するもんじゃない、これはこのまま私ならお供えすると佐田先生が申しました。その度胸、その度胸があるなら、もう、本とに十万円の言うならば、時には必ずお繰合せ頂くよネと、けれども言われたから、教えられたから、でそれが出けたのではおかげにならない、これもやはり信心のテクニックなんですネ、皆さんも自分の事で、自分のイヨイヨのギリギリの時にはネ、やはりそう言う話を聞いて置くとおかげ頂きます。昨日皆さんに聞いて頂きました日田の高野さんのネ、一千万円の銀行から借りるにもう、それこそ、銀行にいっぺんも足を運ばんなりにおかげを頂いたと言う話しをさして頂きまして、今度日田の教励会の時には、この事が、例えば、高野さんがその事だけじゃなくてずーっと私との係わり合いからおかげを受けて来られた。そう言う様な凄まじい、今も申します様なネ、本とに手の平を返す様な凄まじいおかげが頂けれる高野さん夫婦の信心の内容をネ、中心にして一つ本気である研修をするといいですネ、と日田の方へ行く人達に私申しました事でした。そしたら私、昨日始めて聞かして頂いたんですけれど高野さんがおかげ頂かれるのはまァ、食料品店でしょ、野菜とか、果物とか食料品のお店ですけども表に「合樂理念の実験実証の店」と看板が出とるそうですネ、私はもう、これだけでんおかげ頂くなァと、私改めて又思いました。皆さんどうでしょう、お店をなさって居られる方たち、「合樂理念の実験実証の店」お客さんがこれは何のと、それこそお客さんと私どもが本当に拝みおうて、そこから御商売をして行う、頂いていこう、お客さんに喜んで頂こうと言う生き方で、これは合樂の信心の芯なんですョ、とまァ、説明するせんは別としてそう言うなら看板が堂々と出せると言う事、もう、これだけでも高野さんがおかげ頂きなさるなァと言って昨日言うた事でした。これなんかは素晴らしいテクニックだけでは無くてです、本気で合樂理念の実験実証ですから、よそが十銭で売る物を八銭でと教祖様がおっしゃる、それを実行しておるから、その看板が出せるのですネ、まァ、本当の事と言うのを今日私は鏡を立ててと言う事から、自分達の只、鏡を立てずに解らんからお願いをする、難儀な問題を持って来る、もう、癌でこうと、命が在るか、無いのと言う様な事であっても、それこそ一切にお願いをして行ってみた処がもう、癌が、癌の気も無かったと、昨日も丁度、秋永友良先生がお導きして来た親子の方があった。だからその話をまァとにかく病名が解らん大変な難儀な病気でしたから丁度その時に萩の市川さんが参って見えました、だから、それそこに来とんなさる方があのゥ、胃癌でおかげで、言うならば手術をせんなりに病院にかからんなりにあのゥおかげ頂いた人ですョと、言うてまァ、お話をした事ですけれども、そう言う、例えばおかげを受けると言う様な事がです、どうしてそう言う癌の様な病気をしなければならないかと言う事を解らして貰うて、成る程これではこう言う難儀な目に合わんならん内容が自分の心の中にあったと教えの鏡に映し出された、そこでそれを本気で改まった、磨いた、一段と自分の思い方、考え方が、本当な事が解って来たネ、病気をして居ると言う事も本当なら病気をしなければならない元が解って病気をしたと言う事が解る事はより本当な事なんだ、だから、その元である処を取って除く、まず、癌を切って取って除くよりも自分の心の中に癌を切って取り除くと言う時にです、言うなら心は平静、もう、その事のおかげで癌にもおかげをうけた、自分の心の上にもおかげをうけたと言うネ、これは教えの鏡に映し出されたものネ、辛い、悲しい思いをする時に鏡を立てて人に悪い顔を見せるな、とネ、そう言う精進もさることながら、どうしてこう言う悲しい思いをしなければならんのであろうかと自分の姿が鏡に映っておる、悲しい顔を見てネ、悲しい事にならなければならない元を言うならば教えの鏡によって自分の心が解ってくる、金光教の信心の真実の、言うならばおかげ の受け方であり、又神様が願っておられるのもそれなのであるけれども、今おかげの表れ方の、いわゆるおかげのテクニックね、と言う事もあって、それおかげになるのは神様が神の権威に掛けても、言うならば印を見せると言われるようなおかげもある。いわゆるおかげも様々である。果たして私共はどのおかげを願っておるかネ、心一つで総てを創ると教えられるのに心一つに取組まずに只それこそネ、はァ、どこどこの人はもう、本当にあの癌がもゥ、手術台に登んなさった時にはもゥ無くなっていたげなと、そう言うおかげ、ほんとに手の平を返す様なおかげを信心をせんなりに頂こうと言った様なものが有りはせんだろうか、改まる事、自分の心に本気で取組む事をせずして、只おかげにだけ取組むと言うのがそれであるネ、これは嫁入りの時に持って行く鏡だけでは有りません。信心させて頂く者がみんな言うならば、教えの鏡をこうやって頂いて居るんですから、教えの鏡による言うならば、生き方を身に付けて行く、そう言う生き方から本当の意味に於いてのです、合楽理念はその気になればその事が楽しゅうできない筈の信心が出け、改められ、そうにもなかった事が改められる手立てが合楽理念には説いてあるのですよネ、だから、それに取組むと言うことが、言うならば、御道の信心、合楽ではネ、もちろん御祈念も要りましょうネ、場合にはテクニックも使わなきゃあなりませんネ、又、まさかの時には生神金光大神助けてくれと言えば助けてやるとおっしゃる、よりも只何もかにもないけれども只助けて貰わんならん時も有りましょうけれども、根本に今申しました話を聞いて助かると言う信心、鏡を見て自分の正体が解って、その正体に取組んでの信心、そこん処を一つおかげを頂いて行きたい。どうぞ!!